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天下一の焼印
焼印「天下一若狭守」
喜多流9世、七大夫古能が記した「仮面譜」や「面目聞書」では、この焼印を用いた面打師を、中作以後、つまり桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した角坊としています。
角坊は、小瀬甫菴が記した「太閤記」をはじめ、宮内庁書陵部所蔵「角坊文書」における、文禄2年(1593)6月朔日の豊臣秀吉朱印状写に「打様無二比類一候間、自今以後可レ為二天下一一之旨被二仰出一候」と記されているように、肥前名護屋に在陣中の豊臣秀吉に召し出されて面を制作し、面打師として初めて「天下一」号を与えられた日野法界寺の僧であることが確認できます。
しかしながら、角坊が「天下一若狭守」の焼印を使用したとする記述は、喜多古能が記した「面目利書」と「仮面譜」のみであることから、近年、別人である可能性も検討されつつあります。
焼印「天下一是閑」
世襲面打家の一つである大野出目家の初代・出目助左衛門吉満が出家し、是閑と号して用いた焼印になります。
東北大学附属図書館所蔵「出目由緒書」によると、角坊が「天下一」号を授与されてから2年後の文禄4年(1595)2月25日、「手際以下無二比類一之条被レ成二天下一一候」として、豊臣秀吉より「天下一」号を授与されたことが窺えます。
しかし、秀吉没後は徳川家康に仕え、家康より改めて「天下一之蒙二上意一」とあり、「天下一」号を検討する上で、興味深い記述となっています。
元和2年(1616)4月朔日、90歳で没したとされますが、喜多古能が「面目利書」において、子孫である大野出目家5代・洞水満矩が「是閑は名人なり」と評したと記すように、作品は高い評価がなされています。
焼印「天下一友閑」
世襲面打家の一つである大野出目家の2代目・出目助左衛門満庸が出家し、友閑と号して用いた焼印になります。
東北大学附属図書館所蔵「出目由緒書」には、父・是閑の跡を継ぎ、幕府御用を務め、写し面を21面制作し、面の修繕も10面行ったこと、また禁裏御用も務めたことが記されており、面打師としての友閑の活動を知ることができます。
しかしながら、「出目由緒書」では、備前掾に任じられたことを記すものの、「天下一」号の授与に関する記述は無く、どの時点で「天下一」を名乗ることを許され、この焼印を使うようになったのかについては不詳です。
承応元年(1652)5月2日、75歳で没したとされますが、「面目利書」において、その作品は全体的に是閑と似ており、古作として扱われているものも多いと、喜多古能は指摘しています。
焼印「天下一大和」
喜多古能が記した「仮面譜」において、世襲面打家の一つである近江井関家の4代目・井関家重(「天下一河内」)の弟子とされた、大宮眞盛が用いた焼印になります。
万治元年(1658)、大和大掾に任じられている眞盛ですが、「天下一」号についての記述は無く、どの時点からこの焼印を使用し始めたのかについては不詳です。
「面目利書」では、「焼印丸く天下一大和と有、又瓢単形にて天下一大和と有もあり」と記しているものの、瓢箪形の焼印は、この面以外には、銕仙会が所有する「痩女」の1例しか確認することができず、貴重な作例となっています。
寛文12年(1672)に没したとされますが、喜多古能の作品に対する評価は高く、「面目利書」では、「河内に続きたる上手なり」「小面は河内も及ばざる上作なり」と記しています。
焼印「天下一近江」
世襲面打家の一つとなる児玉家を興した児玉満昌が用いた焼印になります。
「仮面譜」や「面目利書」などによると、満昌は当初、世襲面打家である越前出目家4代目・出目満永の養子であったものの、他家である井関家重(「天下一河内」)を見習った制作を行うなどの創作活動も影響し、離縁されたと記されています。
離縁後、京都で面の制作を行っていた満昌は、寛永20年(1643)6月5日、近江大掾に任じられていますが、「天下一」号についての記述は無く、どの時点からこの焼印を使用し始めたのかについては不詳です。
宝永元年(1704)に没したとされますが、喜多古能は「面目利書」において、寿硯(喜多流初代・七大夫長男)との関係から「近江打多く喜多流の形なり」と記し、その作品も高く評価しています。
焼印「天下一備後」
世襲面打家の一つである大野出目家の4代目・出目満喬(洞白)が用いた焼印になります。
現在の福島県いわき市泉町下川に生まれ、水野谷加兵衛と名乗っていましたが、越前出目家4代目・出目満永、児玉満昌(「天下一近江」)に師事した後、面打師とならなかった大野出目家3代目・助左衛門の養子となっています。
写し面の制作や面の修繕などの幕府御用の外、禁裏御用を務め、寛文12年(1672)2月5日、備後大掾に任じられています。
大野家に伝わる記録によると「此節ヨリ天下一ニ相成申候」とあり、これに従うならば、この頃から「天下一」の焼印が使用されたと考えられます。
正徳5年(1715)、81歳で没したとされますが、「面目利書」において喜多古能は「近世の上手なり」と評しています。