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1.井上城跡

印刷ページ表示 更新日:2021年8月1日更新

> 延岡市の文化財看板

井上城跡

井上城跡(延岡市古城町) 所在地:古城町

南北朝時代~室町時代初期の延岡(当時は縣(あがた))地域の拠点と考えられる中世城郭。平安末期の治承(じしょう)元(1177)年の土持(つちもち)栄綱(よしつな)や鎌倉末期の永仁(えいにん)5(1297)年の土持国綱(くにつな)の築城とされるが、根拠となる一次資料はなく詳細は不明である。しかしながら「田部氏系図」などによると、この地域に土持の支配が及んだのは南北朝時代の14世紀半ば以降とされ、この頃の築城とみられる。

 井上城の西に位置する法明寺(ほうみょうじ)には、天正6(1578)年1月2日に島津(しまづ)義久(よしひさ)への新年挨拶に派遣されて島津氏への帰順交渉を成立させた土持相模守栄続(さがみのかみよしつぐ)の法名「葉月玉公大禅定門」の銘を持つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。井上城が天正(てんしょう)期まで機能していた可能性を示唆している。

井上城は、愛宕山の北西、大瀬川に接した独立丘陵に立地している。城の西には幹線道が通じており、大瀬川の渡河点を抑えた要衝であった。縄張りは、階段状に曲輪(くるわ)(城内の平場)を配置した北の城域と、幅数m、長さ20メートル~30メートル程の細長い土橋(どばし)状の尾根筋に曲輪が連なる南の城域に分かれる。主郭となる北の城の曲輪1は標高68.4メートル比高60メートルを測り、延岡地域の中世城郭の中では最も高所に築かれている。北の城の曲輪1・3および南の城の曲輪1・2など、標高60メートル級の曲輪が4つも分立しているため城全体の防御機能はやや散漫な印象を受ける。

 南の城と北の城をつなぐ南の城の曲輪3の土塁(どるい)(防御用の土手)や、曲輪6の西側を北に下る土塁など、曲輪、土塁、竪堀(たてぼり)などの多くの遺構が残っている。

【文責 延岡史談会】

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