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6.松尾城跡
松尾城跡 所在地:松山町
室町時代後期~江戸時代初期の延岡(当時は縣(あがた))地域の拠点となった中世城郭。文安(ぶんあん)3(1446)年の土持宣綱(つちもちのぶつな)の築城とされるが、根拠となる一次資料はなく詳細は不明である。
天正(てんしょう)6(1578)年の豊後大友氏(大分県)による縣侵攻時の資料には「土持要害(城郭のこと)松尾」等の記録が多く残されている。
高平(こうびら)山から南に派生して五ヶ瀬(ごかせ)川に突き出た尾根の先端に位置し、南の五ヶ瀬川、西の内山谷(うちやまたに)川、東の松山川を塀としている。城の主体部は曲輪(くるわ)(城内の平場)18~本東寺(ほんとうじ)の広大な東区画と、曲輪1~17の西区画で構成されている。永田神社の丘陵も出城と考えられる。
主郭となる曲輪1は標高54.5メートル、比高は44メートルを測る。曲輪1~3は、敵への側面攻撃を仕掛けるために2つの大堀切(ほりきり)(防御用の空堀)で区切って折れ(横矢掛(よこやが)りという)を重ね、西に展開する尾根筋に堀切、竪堀(たてぼり)、土塁(どるい)(防御用の土手)を多用しており、延岡の中世城郭の中では最も防御性の高い縄張りとなっている。曲輪2北端の土塁は高さ約2メートル、長さ約50メートルを測り、延岡地域に現存する土塁では最大である。農地化された曲輪3と曲輪11の北端にも同様の土塁があったと伝わる。
曲輪18から北に迂回し曲輪3・2の西を抜けて曲輪1に至る現在の遊歩道は、昭和40年代に造成された作業用道路である。法面改修工事に伴い実施された発掘調査(延岡市教委1998)で曲輪5から排水暗渠(あんきょ)遺構が、曲輪7からは礎石が検出されている。
城の南裾と東裾には武人屋敷という地名が伝わっており、堀端、城ケ峰、代官屋敷、馬場野などの城郭関連地名が城跡の周囲に伝承されている。
【文責 延岡史談会】