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7.西階城跡
西階城跡 所在地:西階町
室町時代中期の延岡(当時は縣(あがた))地域の拠点と考えられる中世城郭。正長2(1429)年に土持全宣(やすのぶ)の築城とされるが根拠となる一次資料はなく詳細は不明である。土持宣綱(のぶつな)が松尾城を築いて移る、文安(ぶんあん)3(1446)年までのわずか17年間の縣土持氏の居城であったとされるが、発掘調査で曲輪(くるわ)(城内の平場)14から13世紀前半の備前焼水甕破片が出土しており、城そのものは前後の幅広い時期にわたって機能していたと考えられる。松尾城への移転後も「中の城」と呼ばれ城を管理した土持一族が中城(なかじょう)姓を名乗っていたとされる。
西階城は五ヶ瀬川と大瀬川の分岐点に立地しており、城の東を南北に通じていた幹線を抑止する要衝に位置している。城域は、本丸(曲輪1~7)・二の丸(曲輪8)・三の丸(曲輪9~13)からなる本城区域、曲輪14~19の出曲輪群、物見曲輪区域(曲輪20・21)、龍仙寺(りゅうせんじ)のある東の城区域(曲輪22~24)で構成される。北の西階中学校地に屋敷地が、本城区域北側の西階台・五ヶ瀬団地には馬場があり、東の城の東側には湿地帯が広がっていたとされる。
本丸の曲輪1は、標高50メートル台の曲輪2~5で周囲の守りを固め、堀切(ほりきり)(防御のための空堀(からぼり))を挟んで曲輪6が配置されている。大堀切を隔てた二の丸(曲輪8)の東の西階公園墓地も元は何段かの曲輪で構成されていたと推定される。三の丸中央の曲輪9はとても複雑な構造を残している。東の城は給水タンク建設による改変を受けているが、南北両端の物見曲輪23・24に連結する土橋(どばし)上の尾根筋がよく残っている。
本城郭は、曲輪、土塁(どるい)(防御用の土手)。堀切、竪堀などの構成要素がよく残る中世城跡であり、曲輪1から北の松尾城を、曲輪20からは東の井上城を見渡すことができる。
【文責 延岡史談会】