本文
のべおか偉人伝「岩熊井堰物語」
藤江 監物・江尻喜多右衛門
岩熊井堰今から270年ほど昔、延岡藩は牧野氏の時代。
出喜多村(いできたむら、現在の出北)は、米を作ろうにも土地が川より高かったため水を引くこともできず、「ヒバリの巣」と言われるほど荒地が広がっていた。
出喜多村の農民は、前々から「何とか水を引いて欲しい」と藩に願い出ていたが、聞き入れてもらえなかった。
こうした状況を、家老の藤江監物(ふじえけんもつ)は哀れに思い、厳しい藩財政で反対意見が強かったのを説き伏せ、井堰を作り、出喜多村まで水を引くことにした。
工事責任者には、郡奉行で水利・土木技術に優れていた江尻喜多右衛門を命じた。
最初、三須(みす)に井堰を作り始めたが、地盤が軟らかく度々洪水で流されたため、地盤の硬い今の岩熊(いわぐま)につくることにした。
工事は難航し、反対派からは工事中止との意見や非難を受け、監物を快く思っていない他の家老達は軍用金流用の汚名を着せた。
軍用金流用の疑いにより、監物は3人の息子とともに日之影の「舟の尾」の牢に入れられた。
病弱であった長男は半年足らずで亡くなり、監物もその死を悲しみ自ら食を断って亡くなった。
監物の遺志は江尻喜多右衛門が引継ぎ、監物が亡くなって3年ののち、11年もの歳月と多額の資金をつぎ込んだ岩熊井堰と12キロにも及ぶ用水路が完成した。
その後、延岡藩は300石余の増収をみたという。そして、日之影町舟の尾にある藤江監物父子の墓は、今でもこの井堰によって恩恵を受けている人々によって大切にされており、旧暦の8月17日岩熊土地改良区の組合員が多数参拝し、法要を営み感謝報恩の至情を表している。
また、出北の住民は、藤江監物と江尻喜多右衛門の恩を永く忘れぬため、出北に二人を祀る観音堂を建て、毎年旧暦の8月18日に慰霊祭を行なっている。
そして、藤江監物と江尻喜多右衛門が亡くなってからおよそ200年後の大正14(1924)年、両氏の功績が公に認められて従五位を授けられた。